院長myストーリー
部活に打ち込んだ高校生活
私が鍼灸・整骨・トレーナーを目指したのは高校3年生の春です。私立の強豪校で野球部に所属していた私は下級生のころから先輩にストレッチを頼まれたりトレーニング指導を頼まれることも多くトレーナー補佐の様な役割をしていました。そのチームトレーナーの影響もありスポーツにかかわる仕事がしたいと思いはじめました。
医療の道を目指したいという思いが固まったのは高校3年生の春季大会前に起こした膝のケガがきっかけです。
その時はケガ直後は膝に血が溜まり歩くこともできない状態でした。
靭帯が切れていたら最後の夏の大会に間に合わない・・・そんな状態でした。
幸い靭帯は切れてはいなかったのでずが最後の大会に間に合うかは微妙な状態でした。練習ができない不安とベンチ入りできるかわからない不安、そんな最悪のメンタル状態に光を灯してくれたのが整形外科医と理学療法士の先生でした。
背番号発表後のケガだった為、春の大会は松葉杖をついてベンチ入り、そんな試合に出られない自分の為に私の背番号を帽子の横に書いて戦ってくれた事は涙が出るほど感激しました。
夏の大会までも必死のリハビリで何とか最後の大会に間に合い甲子園出場
9回裏2アウトに代打で出場し智辯和歌山の投手から7球ファールで粘った12球目にセンター前にヒットを打つ事が出来ました。
あの時の観客の声援、一塁ベースでガッツポーズをしたあの瞬間は今でも忘れない一生の宝物となっています。
その試合は阿久 悠さんの目にとまり「土壇場のヒーローたち」として詩を書いて頂きました。
自分もそんな人の為になる仕事がしたいと思う様になり鍼灸師がプロ野球の現場でトレーナーとして活躍している事を知り鍼灸学校に入学する事を決めました。
鍼灸学校での苦悩の日々
鍼灸学校の入学するも当時は私の様な新卒者はほとんどおらず、脱サラ、タクシードライバー、すでに他の国家資格を取得した社会人ばかり、完全に場違いでした。夜間部だった為昼間働こうとクラスの大人の方に相談したところ「タウンページで大きく掲載されているところに片っ端から電話するとよいと!」と教えられたので真に受けて片っ端から電話をかけてみたところ鍼灸整骨院のアシスタントとして働く事が出来ました。そこでは右も左もわからない私に社会人としての基礎を一から叩き込まれました。
学校では専門用語の嵐に授業についていけず1年生の頃は成績不振で留年を覚悟するほどでした。先輩達に支えられながら勉強を積み重ね3年生の頃には学年トップ10入る成績で卒業、鍼灸師の国家資格を取得しました。
鍼灸学校の2年生の時に3年生だった彼女と(現在の妻)とお付き合いすることになる。
いざ東京へ
鍼灸師の国家資格取を取得後、本物のの技術は東京にある!!と1年間整形外科に勤務して貯金したのち本物の柔道整復学校に入学
彼女との遠距離恋愛スタート
夜間部の為、鍼灸の資格を活かしながら昼間は働き学校に通いました。
入学時、自己紹介で就職希望者の募集を呼び掛けていた同級生に見学をお願いしたところ院長とお会いして何故かその場で面接に、それが東京で多くの経験をするきっかけとなりました。
オープニングスタッフとして鍼灸整骨院の立ち上げに参加
消化器外科の病棟でリハビリ室長を任さる
元気になって退院される方、病態が悪化して病院で最期を迎える方、前日「明日もまたくるからね!」と元気に挨拶した方が次の日ベッドにいない事もありました。命の大切さを改めて実感する病院でしかできない経験をさせて頂きました。
高齢者の往診業務
柔道整復師の国家試験取得後は整形外科のリハビリ室の室長としてリハビリ室の立ち上げに参加
捻挫、骨折、脱臼、肉離れの応急処置、運動療法、スポーツ選手や一般の方のケガの施術をおこなってきました。
しかし、技術を習得していくうちに対症療法や局所に対しての施術への疑問を感じる様になりました。
なぜ全身を診た施術にこだわるのか??
消化器外科に勤務していたことの話です。
40代のガンの方のリハビリを担当させて頂いた時の事でした。
医師からのオーダーは全身の浮腫みを軽くする事と筋力を落とさない様に筋力トレーニングをする事でした。
痛い所を押したり、関節を大きく回せばそれなりに浮腫みは取れました。
弱ってきた筋肉に負荷をかければ筋力の維持はできました。
しかし、ガンはどんどん進行していきました。
ある日いつもの様にリハビリをしていると「お父さんに私が何かできる事はありますか?」と聞かれた時私は「優しく背中をさすってあげて沢山お話をしてあげてください」と答えました。
もちろん、「手当」や「コミュニケーション」は昔も今も常に大事にしていますが、もう少し体の奥まで届くアプローチができたらその方がご家族ともう少し長く過ごせたのではないかと思うと施術者としての自分の無力さを感じました。
そんな思いをしていた時に出会ったのが全身の評価を行い骨格を整える事で血液、リンパ、神経、呼吸機能を調整するクラシカルオステオパシーでした。
故郷を錦を!!
柔道整復師の国家資格を取得し、トレーナー学科を卒業後、現場経験も積み次のステップを考え始めていた時、
7年間付き合った彼女と結婚、そして長男の誕生
そんな時に札幌で分院長をやってみないか?と誘いをうけました。東京で一旗上げてやろうと意気込んで上京した自分も父親となり家族を守る立場になった時、育児の環境や札幌から私の為に東京についてきてくれた妻の事を考え次のステップを独立開業に向けた経験の場として札幌に戻り分院長を目指す事にしました。
無職に・・・
分院長として店舗オープンに向けて準備をすすめるも会社の代表と考えが合わず数カ月で退社、妻と生後半年の息子を抱え無職になる
さて、どうする?
整骨院の求人をみたり、デイサービスで働くか?ハローワークにも行きました。家族を養うために運送屋で働くにも免許がない・・・もう思い切って独立開業か?でも資金もない、東京での経験を活かして開業!!と思っていた自分にとって施術の技術だけではどうにもできない状態になり次の決断をできずにいました。
白衣を脱いで新たな挑戦
そんな時救いの手を差し伸べてくれたのが東京の学校が同じという事を理由に1、2度しか会ったことのない先輩でした。
偶然フェイスブックのイベントページを眺めていた時に先輩の主催する勉強会の案内を見つけました。5~6年札幌を離れていた自分にとってとにかく情報が欲しく参加することにしました。それが運命の出会いとなり新たな挑戦が始まりました。
今まで白衣を着て仕事をしていた自分はトレーニングウエアに身を包みトレーニング指導兼施術スタッフとして勤務する事になりました。
そこでは東京で培ってきた自信は表面的なものである事を知ることになり伸びた鼻はへし折られ自信喪失した事もありましたがそれが私を成長させてくれて今がある様に思います。
東京に行き本物を探しに行きましたがこんなに近くにあったのか!?と思う事もあります。
その時に正しい姿勢の重要性や体の動かし方、施術で整えた体をどのように動きにつなげていくか?症状改善後のアプローチやセルフケアを深く学び知ることになりました。
ついに念願の開業
パーソナルトレーナーとしての仕事は午後からの為、午前中は代表の理解もあり自分の仕事をする事が出来ました。元々開業志向だった自分は自宅を往診の拠点として高齢者訪問鍼灸&リハビリ「訪問治療まちむら」を開業しました。
その後ケアマネージャーさんや利用者様のご家族の紹介で徐々に利用者様も増えていき、ついに円山駅徒歩1分の場所に約3坪のマンションの一室を借りマッチコンディショニング治療院を開院する事が出来ました。
突然の立ち退き要請
円山で店舗を構え往診と共に少しずつ利用者様が増えてきたころ、マンションの組合長よりクレームが入る、借りる時は良いとされていた人の出入りがある店舗使用はNGだったらしく大家さんが来て突然の立ち退き要請、軌道に乗りかけていた矢先に移転を余儀なくなれ次のテナント探すことに
マッチ鍼灸整骨院 開院
移転を余儀なくされた自分に与えられた期間は2カ月間、それまでに次のテナントを探しながら施術を行っていく状況でした。空き時間に10件以上の不動屋さんに相談をしやっと見つける事ができました。失敗から学び前回より入念に確認を行い西15丁目に8坪の店舗使用可能なテナントを借り設備も整え安心して施術を受けて頂ける環境が整いました。
その際に「訪問治療まちむら」と「マッチコンディショニング治療院」を一つにし「マッチ鍼灸整骨院」としてリニューアル―プンさせる事となりました。
2度目の店舗移転はDIY!?
今回は事業拡大による移転です(笑)前回店舗は8坪しかなく待合室を何とか確保している状態でした。
3階の奥まったマンションの一室という事もあり皆さんに安心してお越しいただける状態にしたいと常々思っていました。
店舗も軌道にのりもう少し広い店舗を考えていたところ今のテナントを見つけました。家賃はクリア、でも改装費用がない、
見積もりをとってもらったところ100万といわれそれは払えないので、自分で改装することに!
施術の合間にお客様の見えるところから壁や床を貼りはじめ約3か月程で完成しました。google先生に大分助けられました。
3年目になりますが壁や床ははがれておりません。(笑)
1階に薬局の入る15坪のテナントです。もちろん店舗使用可能です。ベッドが最大3台おける店舗にまで広げる事ができました。
こうしてヤドカリの様に少しづつ店舗、事業を拡大し技術と共に成長している鍼灸整骨院です。
自分の思いを皆さんに直接お伝えしたいのでホームページもすべて自主作成しております。
皆さんにこの思い届いてくれたら嬉しいです。
夢や希望に胸膨らませ東京に行きました。多くの経験もしました。自信をつけて札幌に戻るも長く伸びた鼻をへし折られ自信喪失した時もありました。でもできない事を認め真剣に目の前のお客様と向き合う事でできない事ができるようになりました。沢山の方に支えられながらここまで成長してこれた事に感謝しながら今後もまだまだ成長し続けます。
クラシカルオステオパシー創始者:ATスティルの言葉
「この本を閉じてはいけない」
という言葉を胸に刻み皆様のお力になれる様にこれからも学び続けます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
マッチ鍼灸整骨院
町村 祐輔